玉木雄一郎(Tamaki Yuichirou)

政治家

頑なに生きてきた政治家人生で 「誰もが安心して暮らせる日本」を、いつ目指せるか。

【農家出身であるプロフィールと地元愛を貫く政治姿勢】

1969(昭和44)年5月1日、
香川県大川郡寒川町(現さぬき市)に
3人兄弟の長男として生まれる
(次男・三男はどちらも
経営者というエリート家系でもある)。

寒川地域は現在も、
地元農家が作って早朝収穫した
旬の野菜が好評な
「寒川やさい村」がある
農業地区だが、
玉木の父母も兼業農家で、
祖父は大川農協組合長、
父が経済連に勤務、
母は介護施設で働いていた。

玉木も子供の頃、
田植えや麦蒔き、
肥料や農薬の散布まで
手伝っており、
実家は今も
「田んぼの中に家がある」
環境だと
YouTubeで述べている。

農作業から協力し合う
ことの大切さなど
学んだことも多かったらしく、
自身のWEBサイトの
プロフィールにある
「土の匂いのする政治家」という
キャッチフレーズは、
そうした境遇から
来ていると思われる。

後になって内閣府時代、
当時の自民党幹事長・安倍晋三から
立候補を打診されたが、
選挙区が出身地の
香川2区でないことから
「地元から立候補したい」と
断ったエピソードが、
地元愛を象徴している。

【アスリート気質で駆け抜けた学生時代】

寒川町立神前小学校
(現在、閉校)時代は、
サッカー少年だった。
公式ブログでも、
次のように語っている。

「実は、私は(70年代から80年代の)
小学校の頃、
プロのサッカー選手になろうと
思っていた(Jリーグ発足は
93〈平成5)年〉)。
小学校高学年の頃は
毎日サッカーボールを
追いかけていた。
家から小学校まで
片道2キロ以上の
距離があったが、
ドリブルをしながら
通ったりもしていた」。
と語っている。

ところが、
寒川町立天王中学校(こちらも
閉校)では、
一転して野球部に入部。

当時については、
同級生で、現さぬき市議会議員の
中川睦彦が説明している。

「玉木代表とは中学時代は
同じ野球部で代表が
キャプテンで
私が副キャプテン
という関係でした。

また、玉木代表が生徒会長に
立候補した時は
私が応援弁士をして、
見事生徒会長に当選しました

今、考えてみるとその時から
何か将来を暗示する、
縁が有ったのかもしれません」。

高校は、香川県立高松高等学校、
偏差値71、香川県トップで
全国でも121位の名門だ。

高校での玉木は、
体育会系をあっさり捨てて
バンド活動に明け暮れるが、
この当時の演奏技術は、
政治家となった現在にも
活かされている。

2009年春の公式ブログでは、
次のような投稿を行っている。

「櫻の咲く、美しい季節に
なりました。
一連の事件で気持ちも
重くなりがちですが、
週末、事務所のスタッフと
花見に出かけました。

私は、遅れて参加しましたが、
わきあいあいの
楽しい会になりました。

やきそばも美味しかった。
いつもは苦労ばかり
かけている皆さんに、
少しでも感謝の気持ちを
伝えることができればと、

下手なギターの弾き語りを
披露させていただきました。

数ヶ月前から、
ギターを引っ張り出してきて、
夜中、寝る前に一人弾いていた
のですが、
久しぶりの人前での演奏。

緊張して失敗しまくりましたが、
スタッフの皆さん、
根気よく(笑)
聞いてくれました。

温かい拍手までいただき、
私の方が感動しました」。

その一方で、
高松高校の体育教師は、
玉木の身体能力に気付き、
陸上部を勧めたが、
玉木は
「大学で」と断っている。

この辺りの頑固さは、
先の内閣府時代のエピソードと
併せて、
玉木の性格をよく表している。

ちなみに

香川県立高松高校、旧制高松中学、
旧制高松高等女学校合同の
同窓会組織「玉翠会」の支部
東京玉翠会は、
毎年7月に1000名以上が出席する
同窓会を開催している。

玉木も同会に参加し、
自身が作ったゴルフ部での
交流を含め、
省庁・金融などの
リアルな情報収集もでき、
リスペクトすると共に
政治家としての生き方に
ブラスの要素を見出している。

【政治家を目指す起点となった、東大~大蔵(財務)省時代】

さて玉木は、一浪したものの
1989(昭和64)年、
東京大学法学部に入学する。

高松高校の体育教師の
助言に影響されたか、
東大では陸上部に入部。

短距離専門で練習していたが、
タイムが伸び悩んで
いた玉木に、
主将だった島本幸治
(現・京都大学経営管理大学院特命教授)は、
器用さを評価して
(100mから砲丸投げなどの投擲種目まで、
1日5種目ずつ2日間で 10種目を行なう)
10種競技を勧めたが、
玉木はこの種目で頭角を現し、
全日本100傑に入る成績をあげた。

ちなみに玉木は、
民主党時代に、
あの「事業仕分け」の会場で、
島本と再会したことを
「日本経済新聞」交遊抄で綴っている。

国民民主党代表になってからも
玉木は、
同競技の日本記録保持者で
アジア王者である右代(うしろ)啓祐選手への
応援を求めつつ、

「昨日の右代選手の記録を見ると、
100mと400mなら
私のベストの方が上だな(自慢)」

と冗談まじりに
Twitter(当時)で
まさに上から目線の
投稿をしている。

東大時代のエピソードで
公開されていることは
少ないが、
2018(平成30)年、母校の
東京大学本郷キャンパスで
ゲストスピーカーとして講演した際、
後輩に向かって

「政治のルートで自分たちが社会に
インパクトを与えようと思えば、
あと20年くらいで、
10年で議員になる準備をして、
残りの10年で何をしようかと考えないと
間に合わない。
皆さんには、
高い志を持って本当の良い意味での
エリート主義をきちんと持って
もらって頑張ってほしい」

と語った内容からは、
東大の学生時代に(それ以前に抱いた)
地方や家庭で教育に格差があってはならない
という思いを育て、その
向こうに政治家をイメージしていた自分と
後輩たちをダブらせていた、
と想像することもできる。

1993(平成5)年4月、大蔵省(当時)に入省し、
主計局総務課に配属される。
1995(平成7)年には、
米国のハーバード大学ケネディ・スクール
(1966〈昭和41〉年に第35代大統領の
ジョン・F・ケネディの名を冠して改称)に
留学した後、
1997(平成9)年には、
同校よりMPA(日本の会計学修士号)を
取得している。

外務省・金融庁・大阪国税局への
各出向を経て、
次に内閣府に出向すると、
行革大臣秘書専門官に就任
(前任秘書官は任務の留意点を書いた
メモを残すという)。
最初の石原伸晃に続き、金子一義、村上誠一郎と
3代の大臣の下で同じく
内閣府特命担当大臣秘書専門官を務め
実績をあげる。
前述の立候補の誘いは、この頃だ。

そして
2005(平成17)年8月、
財務省主計局主査として
財務省(2001〈平成13〉年に
中央省庁等改革に伴い改称)
を退官する。

退官の理由としては、
「(アジアから留学してきた優秀な学友と
接して)このままじゃ日本はダメなんだ」
と危機感を覚えた米国留学と、
1998(平成10)年に起きた
大蔵省接待汚職事件(情報収集目的に
行われた銀行の大蔵省担当=MOF担
(モフタン)による違法な接待)、
この事件は、
接待に使われた(分類上)飲食店から
俗に言う「ノーパンしゃぶしゃぶ
(ミニスカートの下がノーパンの
女性スタッフが接客)事件」と言われるが、
同僚のこの失態を知って
失望したからである、
と言われている。

【民主党の迷走に揺さぶられた後、国民民主党の結党へ】

政治家・玉木雄一郎は、
財務省退官直後の
(2005年)9月に行われた
第44回衆議院議員総選挙に香川2区
(以降、一貫して地元の
同区から出馬)から
「ふるさとが好きだから、一所懸命
(以降、変更なく使用中)」を
掲げて初立候補する。

しかし、
いかにもの準備不足と
“郵政選挙”と言われた
小泉純一郎首相による旋風
吹き荒れる選挙戦のなか、
民主党の新人としては、
あえなく落選する。

しかし、この選挙で獲得した
70,177 票に自信を得て
4年後の
2009(平成21)年の
第45回衆議院議員総選挙に
再び地元の香川2区から挑戦。

自身がYouTubeで述べている
「魂をちぎって渡す」という
熱い演説が功を奏したか、
109,863票を獲得し、
前回敗れた自民党の木村義雄に
リベンジ、
40歳で民主党議員として初当選を飾る。

2012(平成24)年の
第46回衆議院議員総選挙、
野田首相の下、
民主党は173議席を減らす
大惨敗を喫して下野した
この選挙で、

玉木は79,153 票で自民党候補を
僅差で破って辛うじて再選を果たした。
ちなみに本選挙で、香川県以西の
71の小選挙区中、民主党候補で
当選したのは玉木一人という
悲惨な選挙で、
ここから民主党及び
野党の冬の時代が始まる。

玉木は野党になったとはいえ
民主党において、
副幹事長・政策調査会副会長に
就任し、
党の中枢で存在感を増した。

続く2014(平成26)年の
第47回衆議院議員総選挙では
78,797 票ではあったが、
自民党候補に2万票以上の
差をつけて3期目の当選を果たした。

この後、2016(平成28)年に、
民主党と維新の党が合流し、
民主党が改称して民進党が結成された。
玉木は、同年9月の党代表選挙に
立候補し116ポイントを獲得するも、
1回目の投票で過半数を獲得した
蓮舫に敗れる。

しかし、選挙後の党役員人事で
幹事長代理に就任、着々と党の
次期トップを狙う位置に近づいていた。

ところがこの民進党も
内紛が相次いで
国民の支持を得られぬまま、
2017(平成29)年の
第48回衆議院議員総選挙直前、
前原誠司民進党代表は、
小池百合子率いる
希望の党(東京都議会議員選挙での
都民ファーストの会の圧勝を
受けて結党)に合流する決定を下して
党に承認される。

同総選挙で民進党議員は
希望の党の公認候補となる
方向で進んでいた。

ところが、希望の党代表・
小池百合子の「排除します」の
一言で、
希望の党から合流を拒否された議員や、
小池に反感を抱く
旧民主党政権の残党らが、
枝野幸男が結成した立憲民主党に
入党するなどして、
希望の党を巡る混乱は続いた。

玉木はそのまま希望の党所属で
出馬し、82,345 票と
得票数を上積みして
4期目の当選を実現した。

そして2018(平成30)年5月、
一連の合流に不参加だった
議員で構成される民進党と
希望の党から分党した
国民党が合流し、
国民民主党が結党、
当時、希望の党・代表だった
玉木は、
共同代表に就任する。

NHKのWEBサイトで、
当時の玉木は、
「私、消費税については(立憲民主党と)
一致させたかったんですよ。
振り返れば消費税で民主党は
分かれたわけでしょ。
減税するにしろしないにしろ、
考え方を少なくとも
一致してスタートしないと」

と立憲民主党と袂を分かつ決定をした
当時を振り返った。

そして同年9月、
結党から4か月で代表選挙が実施され、
玉木は204対74で対立候補の
津村啓介衆院議員に勝利し
改めて国民民主党代表となった。

ところが2020(令和2)年、
立憲民主党との合流問題が再燃、
合流しない国民民主党の議員が、
その受け皿となる新党を設立するための
分党を要請し、
同年10月に
新国民民主党が設立され、
玉木は再び代表に就任するが、
このときも
12月に代表選挙が行われ、
対抗馬の
伊藤孝恵党役員室長(当時)に
勝利した玉木が、
改めて代表に就任した。

そして2021(令和3)年の
第49回衆議院議員総選挙では、
初めて国民民主党・代表として
選挙戦に臨み、
得票数94,530 票で2位の自民党候補に
大差をつけて
5期目当選を果たした。

国民民主党は、
昨年は2022(令和4)年に、
政府予算に賛成し物議を醸したが、
翌2023(令和5)年には
方針を一転、
与党寄りの姿勢を修正するなど
するが、党勢は回復しないまま
2023(令和5)年9月の
国民民主党代表選挙を迎える。

玉木のこの野党感覚は、
本来は組まれるはずもない
自民・公明の連立政権を前提と
していると言われる。

さて、
この代表選挙でも玉木は、
「政策実現のためなら
政府・与党への接近も辞さない」
という方針を掲げ、
野党が結集し対自民に立ち向かう
方針を貫く
党代表代行の前原誠司に
80対31の圧勝で再任された。

この代表選において、
前原誠司代表代行が8月24日の
記者会見開催をメディア各社に連絡した際、
玉木側が
「前原さんだけの会見は不公平だ、
ズルい」
とクレームをつけたことで
会見が中止に追い込まれたと報じられたが、
玉木の筋を通す頑固さによって生じた
クレームとも解釈でき、
この言葉の真偽も含め、
今後の玉木の言動に注目が集まる。

公式WEBサイト「主要政策」には
「人づくりは国づくり。尊厳ある老後のくらし。
食べるものは自国でまかなう。他国の領土で武力は使わない。
コロナ後の新しい地方のかたち。
たまき雄一郎は誰もが安心して暮らせる日本をめざします」
とある。

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