前原誠司(Maehara Seiji)

政治家

頭脳明晰な誠実さとは裏腹に、なぜかトラブルメーカーの宿命がまとわりつく。

【苦学生としての経験が、政治家としての目標に影響】 

国民民主党副代表として、党内ナンバー2の座にある政治家である。

政策本位の「非自民・非共産」の野党結集を念頭に、
若き民進党議員時代から自民党に対抗する野党の有力議員として、
民主党時代を含め2党で党主を務めるなど期待を集め、
また裏切ってきたと言える。その裏切った感を、
どう払拭してイメージチェンジっできるかが試される。

1962(昭和37)年4月30日、京都市左京区生まれ。
自身のWEBサイトで
「(京都市立修学院)小学校高学年の時は、
すごく太っていました」と語っている。
1959年生まれの姉がいる。

自身が(国立京都教育大学教育学部附属京都)中学2年の時、
京都家庭裁判所の職員だった
父・博さんが自死したことから、
高校1年から大学卒業まで奨学生だった。

京都大学入学後は、
24時間喫茶にバスの添乗員、
鮮魚の卸売市場、
家庭教師と、
さまざまなアルバイトを掛け持ちして生活費をまかない、
奨学金は母に全部渡したという。

民進・民主両党主を経歴してきた実績からは
「頼まれると嫌と言えない」という
性格診断の記述を彷彿させる。

また、苦学生としての経験は、
「教育の無償化」をはじめ、
その政治信条に影響を与えていることは確かだ。

京都大学は2年続けて受験し一浪で入学するが、
本人自ら「言い訳」として
「高3まで野球をやっていたから」と述べている
(現在、滋賀県近江八幡市の中学硬式野球チーム『甲賀リトルシニア』役員・顧問)。

また、母子家庭であったため
「1年だけ」という約束での浪人生活だった。

【政治家・前原誠司の入口は予備校時代の出合い。民主党政権誕生前までエリート政治家として昇り続ける】


前原が政治と出合うのは、その浪人生時代であった。

通っていた駿台予備校京都校近くの書店で
高坂正堯の「国際政治」という本を見つける。

高坂は80年代から90年代にかけて
テレビのコメンテイターとして
「天皇は安全弁」など、
普通ははばかられる意見を
柔和な京都弁で包みながら言うような
人気学者であった。
前原も「現実主義的な考え方に惹かれた」と述べている。

くしくも京都大学法学部教授であった
高坂のゼミを選んだのは必然であった。
高坂の考え方を理解するために、
2年次から2年連続で同じ授業を選択し、
3年次の高坂ゼミでの国際政治の学びを通じて
外交官か学者か、
あるいは政治家かと人生の目標が定まる。

いわゆる選挙の
“三バン(地盤/組織・看板/知名度・かばん/資金力)”で言えば
「金もないし、祖先に遡っても政治家はいないと思う家系」と
自身が言うゼロからの出発であったが

“政界の郷ひろみ”とも称される顔立ちもイメージの助けになったか、

公益財団法人 松下政経塾
(松下電器産業創業者の松下幸之助が1979〈昭和54〉年に設立した政治塾)
を1991(平成3)年3月に卒塾(第8期生)すると、
被選挙権を得て初となる
同年4月の京都府議会議員選挙に立候補し、
当時の府議会史上最年少の28歳で初当選、
1993(平成5)年3月に日本新党・京都第一支部長になると、
1993(平成5)年7月の第40回衆議院議員総選挙において

日本新党公認・新党さきがけ推薦初当選(旧京都1区選出)を果たす。

1995(平成7)年7月には、
33歳で新党さきがけ外交部会長に就き、
1997(平成9)年9月には(合流前の)
旧民主党国会対策委員長代理に、
1998(平成10)年の民主党結成に参加し、
1999(平成11)年10月には同党社会資本整備委員長に就いて
頭角を現し始め、

2005(平成17)年9月に
43歳で旧民主党代表(第5代)になるが

堀江メール問題(ライブドア事件の当事者・
堀江貴文と自民党幹事長・武部勤の間に
不当な金銭の授受があったと民主党の永田寿康議員が
追及したが)で
翌2006(平成18)年4月に辞任に追い込まれる。

一方、2006(平成18)年9月26日に
小泉純一郎氏が自民党総裁の
任期切れに伴って首相を辞めると、
その後の安倍晋三首相、福田康夫首相が、1年ほどで辞任する流れを受け、自民党は国民の支持を失う。

こうした背景から2009(平成21)年8月30日の
第45回衆院選(首相は麻生太郎)で
民主党が単独過半数を大幅に上回る
308議席を獲得する圧勝で政権交代が実現した。

【政治家・前原誠司、要職で混乱を招く事態が続く】

前原は、「民主中道」を掲げた民主党新政権で
国土交通大臣、内閣府特命担当大臣 防災担当、
内閣府特命担当大臣 沖縄及び
北方対策担当 観光立国・海洋政策・宇宙開発担当を兼務。

颯爽と船出したが、
民主党の衆院選マニフェストに従って、
地元との折衝抜きに群馬県の八ツ場(やんば)ダム、
熊本県の川辺川ダムの建設中止を宣言したのは、
いかにも唐突な印象を与え、
翌2010(平成22)年11月には

馬淵国土交通大臣により撤回された。

また、社会資本整備事業特別会計空港整備勘定に
大胆にメスを入れた
航空行政転換も事前の根回しがなく、
民主党の危うい政権運営を象徴する言動が続いた。

2010(平成22)年9月には、
菅内閣の内閣改造(菅第1次改造内閣)に伴って
岡田克也の後任として外務大臣に就任。

48歳4か月での外相就任は、池田内閣時の
小坂善太郎外相を抜く戦後最年少(当時)であった。

しかし、
外相としても尖閣諸島中国漁船衝突事件での
対応を批判されるなど、
手堅い省運営とは言い難かった。

そして京都市内で飲食店を営む韓国籍女性からの
総額25万円の政治献金を指摘され、
2011 (平成23)年3月に辞任を発表した。

代表選に挑むも敗れ、
2012(平成24)年10月の野田内閣改造に際し
国家戦略・経済財政担当大臣となるが、
同年12月に行われた
第46回衆議院議員総選挙で
民主党は記録的大敗を喫し、野に下る。

この選挙以降、大型国政選挙で、
安倍晋三前率いる自民党に3連敗し
退潮色が濃かった民主党は、
2016(平成28)年3月、
維新の党と合流し衆参両院あわせて
150人を超す勢力となる民進党が誕生した。

前原は2017(平成29)年9月に
その代表となるが、
幹事長起用が予想された山尾志桜里元政調会長の
不倫疑惑報じられ
同議員が離党するという不祥事で出足からつまずく。

さらに同年秋の衆院選前に
合流を決めた希望の党の惨敗を踏まえ、
立憲民主党と分裂した原因となった判断を謝罪し、
同年10月に代表を引責辞任した。

結局、執心した希望の党は選挙後、
国民党と新・希望の党への分党手続きにより解党。
その国民党は、
こちらも立憲民主党と袂を分かった民進党に合流し
国民民主党が発足した。

前原は希望の党を経て、この合流劇のなかで
2018(平成30)年5月に国民民主党に参加。

その後、2020(令和2)年8月の
国民民主党と立憲民主党との合流新党(新・立憲民主党)には参加せず、

やはり不参加の道を選んだ
新・国民民主党の設立大会において
党代表代行(玉木雄一郎代表)に就任した。

その後、党安全保障調査会会長、
財務金融委員会 委員を務め、
2023(平成5)年8月21日告示、
9月2日開票の代表選挙に、
“非自民・非共産”勢力の結集を掲げて、
立候補した。

【政治家・前原誠司の主張「みんながみんなのために」】

自身のWEBサイトでも挙げている
「All for All(みんながみんなのために)」というスローガンには
やはり苦学生であった自身の生い立ちが反映されていると推測される。

「生活困窮者だけではなく、
誰もが尊厳を持って生きていけるように
すべての人びとの基本的な生活ニーズを満たす
『尊厳ある生活保障』を実現して行きます」とは
民進党代表選でのメッセージだが
特に「就学前教育の無償化、大学授業料の無償化や大幅減免」に
「教育と防衛は国の根幹」と主張する教育への熱い思いが表れる。

「職業訓練・再就職支援の拡大
保育士・介護従事者等の待遇改善
医療・介護の負担減、住宅支援などのサービス強化を検討」
と続く「All for All」のスローガンは
今回の国民民主党代表選でも掲げられ
その“分配重視”の思想は変わっていない。

もう一つ重要な柱としている外交・安全保障に関しては
「現実路線」を標榜し、日米同盟の維持・強化
自分の国をしっかりと守れる状況をつくる点を強調している。

【“撮り鉄”と“模型鉄”という趣味を通じた石破茂との交流】

前原誠司の趣味と言えば
鉄道、である
(“撮り鉄”と“模型鉄”を自認)。

2022年12月の鉄道開業150周年の記念対談
「鉄道を語り尽くす
集まれ鉄道オタク 石破茂×前原誠司」では、
同じ鉄道という趣味で親交を結ぶ“飲み鉄”の
石破茂議員と昭和の鉄道話で盛り上がった。

「カレーステーション ナイアガラ」の店内で、
1961年に山陰本線初の特急列車として
京都-松江駅間で運転開始した「まつかぜ」から
東京-大社・浜田間を結ぶ急行「出雲」について、
「北斗星」は24形か14形論争など、
尽きない話題のなかで
小学5年生の正月の思い出を次のように語っている。

前原氏の希望で、
家族でディーゼル急行「志摩1号」に乗り、
初詣に向かった日、
草津線から関西線に入る三重県伊賀市の
「柘植(つげ)」駅で突然、
目の前に現れたのは
SL(蒸気機関車)の代名詞とも言えるD51。

除煙板(車両前方からの空気の流れを
上向きに導いて煤煙を上へ流し
運転室からの視界を確保する)に
ハトのマークが描かれた特徴ある車両で、
すぐ分かった。

思わずカメラを取り出したのだが、
フィルムカメラで1回、1回が真剣勝負
という意識もあり、
興奮のあまりシャッターを押せないまま、
D51形906号機は発車してしまった。
前原はその後姿を悔し涙で見送ったという。

新型コロナウイルスに感染した際も、
自宅で鉄道模型に夢中になっていた、
と対談で明かした。

「朝日新聞デジタル」で公開↓
https://www.youtube.com/watch?v=rlyJUU_nM7I

自身のWEBサイトで「今の夢」として
「日本に誇りが持て、他国からも尊敬される国に立て直す」と記している。

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